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文脈が存在しない状況での「わたし」などありえない|社会的役割と文脈依存性

「わたし」は文脈に依存します。
自分探しをする年代の人もいれば、そこを終えている人もいるでしょうが。

価値は、その前提があってこそ決められるものです。
自己分析ややりたいことを考える上で自己を見直すこともあるでしょう。
それがいい場合も悪い場合も出てきます。

でも、必ずその前提条件がある上で「わたし」が存在するのです。
悪い意味での「わたし」があっても、どこか流動的なものです。

目次

どこへ行っても変わらない評価か

とある人事評価の場面において、AさんがBさんに、「どこへ行っても通用しない」と辛辣に批判していることを耳にしたことがあります。
四半世紀を過ぎて生きていれば、確かにBさん抜本的にその生き方が変わるわけではありません。

Bさんの生き方がそこまで大きく変わらない、変えられないということを言いたければ、合っている部分があるでしょう。

でも、どこへ行っても通用しないかの証明は難しいです。

まず、Bさんは、次にどこへいくのでしょう。
その就職先なのか、独立する事業なのか。
そのすべての場合をあげつらうことは難しく。

また、通用するかどうかは誰が決めるのでしょう。
次の上司でしょうか、独立後の取引先でしょうか。
少なくともAさんではありません。

現状の瞬間でも評価するのは難しいのに、多くの場面で他の人の評価を合わせて予測するのは困難です。

よしあしの尺度はどこか

そもそもよしあしの評価は過去から難しさをはらみます。

ソクラテスがプロタゴラスと話した際に、プロタゴラスが人間尺度説をとる。
平たく、「よしあしの尺度は人間が考えるところによる」という説としておきます。

一般意志があるような見方です。

ただ、現代に進むにつれて、個人主義が大勢をしめてきます。
現象学がもてはやされている感じですね。

ニーチェ辺りが赤子の心を説いても、ハイデガー辺りがダス・マンと批判しても、そこには個人の話が主体になっています。
どの見方が正しいかということはここで深く話すことではありません。
言いたいことは、よしあしはすでに収斂されているものではなく、まだまだ議論としてわかっていないことという点です。

悪い評価を受けても仕切り直ししてほしい

どこかの職場で、あるいは、どこかのプロジェクトで悪い評価を受けた方がいても、そこは気にしないで、進んでほしいというのが本稿のひとつの意図です。

「今飛び越えられなかった石は、将来あなたに再度現れる。
過去に飛び越えていないことを後悔するだろう。

とは、見栄えがするかもしれませんが、根拠は薄いです。
今できないことが、将来できない。
つまり、現在まで状況を帰納的に眺めて、将来のことを推測する方法。
ブラック・スワンを見出したわたしたちは、この考えが多くの場合正しくても絶対的に正しいものではないことを理解しています。

仕切り直しをし、悪い評価を受けたとしても、それは前の職場の文脈です。
次の新しい文脈において、同様の評価を受けるものではありません。

「わたし」は、今ある職場やプロジェクトの文脈によって規定される下で、その評価が決定されているのです。

うまくいっている方は、弾みにできます。
自信にしましょう。

うまくいっていない方であっても、それが未来永劫続くと考える必要ありません。
評価は非連続です。
自分がその評価を引きずって次へ進むから連続しているように感じる可能性があります。

文脈が変わったことを理解し、自信を持って、次へ進んでいきましょう。

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